久々の中庸 勉強会でした。
はじめての人にはとっつきにくいかもしれませんが、難しいことを言っているわけではないことが分かります。むしろ簡単だからこそ難しい。
亡くなった祖父が日頃から中庸であるべき と子供たちに言っていたと知って、少し心踊りしました。昔の人は、こういったことを当たり前にしていたのですね。人間が強いはずだと思い知らされます。
中庸の「庸」とは
「庸」とは、平常をあらわします。「庸行」とは、行いの根底にある徳をよくよく考え、徳が不足していると思えば、その不足を補うべく努力を行う。そうするとますます徳が増していく。という意味です。
平常心
何があっても平常心でいられるということは、驚かされてびくともしない度胸があるという意味ではありません。常に冷静な判断ができるよう平常心を保つということです。緊張しなければ、余計な力は働かず、力まないから本来の力を発揮できるのです。
自分が目指した志があって、思い描いたチャンスが目の前に現れた際、緊張せず、普段の力を発揮できることが本当の平常心というわけです。
これはオリンピックを目指した選手が、各工程を経て経験を積むことに似ています。地区大会や県大会など少しづつ緊張を取り去っていき、さらに一番高いところに上り、さらには慣れないインタビューをもこなしていくことが、オリンピック選手たる平常心を身に着けていけるのだと思います。
忠恕とは
いろいろな物事を想起し、自分ならば望まないことを人にすることなかれ の意味です。
- 己が心を尽くすことを「忠」
- 己が人の心を配ることを「恕(じょ)」
世間でよく言われることに、自分がされて嫌なことは人にしないようにしましょう!というものがあります。しかし幼い児童の嫌なこと=宿題や叱られること だとすると、この言葉はいっきにおかしくなります。
むしろ自ら道をきめていない幼い次期は、尊敬する人ならどうするか といった方が、動きやすいのかもしれません。ただ今の日本で尊敬するものがあるかというところ。
テレビタレント、ゲームのカリスマ、バーチャルなアニメの主人公が尊敬する人なら救いようがありません。なぜなら身近でないから。たとえば野球のイチローを尊敬していたとしても、本当の彼を知る立場でないと、彼ならどうするといった本当の判断は出来ませんので、身近に尊敬する相手を見つけるのが早道だと思います。
中庸の道
己の心をものさしとして人の心を計るとき、己と人は必ずしも同じではないが、道に適った人を基準にして己のものさしを正していけば良い。その正した物差しを持って、己が欲さないものは人に施さないとなれば人の道にも適う。
道とは人の本来持って生まれた性質からかけ離れたものではありません。己自身、今一度、道とかけ離れていないかどうかを見極めて日々研鑽を重ね、身を修めていくのです。