感覚・感性だけで動く人には学が欠如し、合理的なだけでも情がなければ人はついてこない
- あきらかにする=灯りを灯す(あかりをともす)
- あきらめる=あきらかにすることで不要なものが出てくる
- 定規をもつ 姿勢を正す。曲がると隙間が空く。--> 体を直にすることで直毘霊(なおびのみたま)の状態に
- 清め=気を蘇らせる (ハレの状態)
- 魔が差す(心の隙間に魔が忍び込む)
昨日、勉強会終わった後の会合で先生に習ったこと。
物事は深く、深く、考える必要がある。人間、一度も考えたことがない事象がおこった時にはすぐ対処出来ない。あらゆるケースに瞬時に対応できるよう、あらゆるリスクを想定し対策を練っておく。
どんなことであっても、常にそういう習慣が必要ということ。
主人公意識
実際には、自分が最後の責任者であることを意識する ということ。
野球のサードやショートはセンターや、レフトがいるからミスをしてもまだリカバリーが可能だけれど、センターやレフトは最後の砦。ボテボテのあたりが、ランニングホームランになることもあるのだ。
一般消費者向けPC販売会社であれば、トラブルが起こった際、サポートセンターは一次切り分けだけれども、工場や、ハード、ソフトの設計部門がたらいまわしだったり、逃げごしであったら、絶対に問題は解決しない。
映像屋が撮影マンが編集マンのことを考えず、無駄なカットを量産したり、逃げカットがないなどの配慮がなかったら後が苦労する。編集で逃げられるだろうと安易に考え、シナリオや構成を作らないディレクターも、結局はそれ相応の品質のものしかならない。
結局はその人の姿勢がすべてをきめる。担当箇所だけではなく、全体を見据えた判断を、それぞれがやることで、カバー範囲がクロスする分だけ、解決のスピードや可能性が早く、広くなる。稟議書で、たくさんはんこをついて責任分散する人たちは不要だ。
感覚だけで動く人、深く学ばない人
よく話が上滑りする人、何がしたいのか解からない人、雑誌や人が言ったことをただ、真似て話すだけで、伝わってこない人がいる。そんな人に限って、自分がないから、覚えていない領域にいくと、突然、話に重みがなくなる。
すかすかなのだ。
一方で話ベタであっても、伝わるし、言葉には深みがある人がいる。これは、深く自分に向かって考えぬいた人だと言える。
仏教・神道はよく自分に向かう宗教だと言われるが、まさにそうだと思える所以(ゆえん)がここにある。
人がついてくる土壌
とにかく、感覚・感性に頼って動く人、学ばない人は深みがない。浅く、自分なりの答えを見つけていないため、土台がない。たいていの失敗は人より多少頭が切れるために何がきても大丈夫と過信し、準備を行わない人に多い。
感性に頼る人(芸術家肌に多い)や、表面だけの人には、人はついてこない。そして合理的でも情がないと駄目。これは小乗仏教など自分だけを鍛える行では得られないもので、深く考え、人とのコミュニケーションの中で醸成されるという。秀吉や家康のような苦労人は相手の苦労が解かるということ。石田光成では厳しい。
情がない人は、人を使えない。
とにもかくにも、第一歩は、深く考える習慣をつけるべきなんだ。
一休さんは答えを出すスピードが早すぎなのかもしれない(笑)