量産の仕組みを考えること=究極の合理化?

一点ものと量産もの

当たり前といえば当たり前ですが、一点ものというのは、とことん細部までこだわって力の限りそれにつぎ込み自身が納得することであり、昔の刀鍛冶のごとく、一心不乱に落款に名を刻むにふさわしい仕事に仕上げることだと理解しています。

だからもう一つ作ってといわれても、作者がもう出来ないというケースも頻発していて、だから国宝指定される美術品のごとく公共物にして見せる希少価値になるのでしょうが。

一方、中国に大量発注した際によく言われる問題は、サンプルのやりとりで、入札勝ち取る為 一品だけを完璧に仕上げて、量産発注したら全然、最初のと違っていて大トラブルになったという話もあるようで、結局は国や人種にも行き着く部分もある

 

大量生産は別の力が必要

それは極端として、とにかく大量生産をしようとすれば、違う力をつぎ込む必要があります。

それはハードウェアであろうと、自然界のものであろうと、ソフトの組み込みや、仕組みであろうと、それなりに力を抜くわけではないけれど、量産の為の道具を開発したり、品質確保の為の画期的な手法を確立したり、チェックの為の仕組みや、もちろんそれは人材教育含めて、人間が出来る範囲で最善を尽くす必要があります。

ハードウェアなら何十万、何百万もかかる金型作りをしてしまった後で、設計変更したらとんでもなくお金と時間を費やすことになる。

世界同時マーケットの今、AIや自動運転、スマホなど、新しいジャンルは儲かるけれど その分、リスクが巨大であり、一つの技術革新ですべてが在庫、返品になる現代、関係者は生きた心地がしないだろうと思います。

 

完全に量産は一点物よりも、圧倒的に難しい

まさに商品サービス作りというのは、先を見越して、大量にとまでいかなくても、ロット内の品質調整はもちろん、前回納品したものと、今回のものと時間が経過しても 品質を同じにする難しさがあります。

そういえば、お菓子 おばあちゃんのぽたぽた焼のパッケージ絵柄が変わって、それなりの反響があったようですが、歴史を超えて愛されているものならば、ビジネス的には安定する反面、その恐ろしさは顕著になります。

だから5年の研究開発で、一か八か味を変えた!けれど圧倒的クレームで元に戻すといったことも、良く聞く話です。

「ぽたぽた焼」パッケージ、現代的おばあちゃんに世代交代…ヨシタケシンスケさんが描く

https://www.yomiuri.co.jp/economy/20230929-OYT1T50165/

そこまで深刻でないまでも、きっとマニュアルや人の教育、ミスのチェック機構、品質維持の手法の確立、作業時間の短縮化、トラブルになりやすい部分の対策含めて、合理化をし続けることが、商品・サービスを維持する秘訣になるのかと思います。

グローバリストは、特許など上流を全部握って、面倒なところ、リスクあるところはどこかにやらせる。もちろん契約で賠償もきっちり作ってやるから、本当の魂が入らない商品ばかりできるのだと確信した次第です。(買う側のことは考えないのがグローバリスト)

まぁお客さんの担当者が変わるとか、iPadなど動きの早い商品そのもの(バージョンで動きが違ったり、ハードが2年おきに変わる)や、バイオなど自然界の常に気候などで揺れ動く商材というものは、本当に難しい。

映像の、去年と同じように仕上げるというだけで、カメラの画角、フレームレートはもちろん、ブルーレイメニューレイアウトから色、形、フォントなど、あらゆる項目を合わせる必要があることもあって、複製に関わるということはボケてられないという結論に至るわけで。

いや血液をぐるぐる動かすからぼけない

という逆説なんでしょうね。つまり、会社で何もすることがないとか、暇だとか会社で言っているというのは、自ら病を引き寄せるということなのかもしれません。

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