図書館でふと目についた雑誌「東京人」
何が面白いといって、単なる売るがためのなんちゃって週刊誌的記事とは違って、とても深く掘った記事群であること。古い写真や浮世絵に加え、高橋是清が出てきたり、様々な視点からほぼまるごと一冊、学問書のように書かれていることでした。
時間切れで2割も読み切れませんでしたが、おおよそ知らないことばかりがズバリ書かれていて、勉強になりました。
引用
東京人 2016.4月号
江戸吉原 ~闇が生み出す江戸の虹
遊女という定義
- フリーランスの女官として平安時代という時期に始まる
- 平和のシンボル、復興と平和と文化を象徴する存在。としての扱いだった.
- 島原の最高位の、遊女、大夫には、朝廷から正五位の位が与えられていた。
- 楽器の調べに歌舞を尽くし、衆人を慰め賑わせた。
三大遊廓
幕府が認めた商業地、京都島原、大阪新町、江戸吉原。一晩の費用は数十万円から数百万円だといいます。ゴージャスな話では、たくさんの桜を毎年 吉原に植えて、人々を楽しませた。
やがてここにもカジュアル化の波が到来。客の方にも次第に新興商人が出てきて、むかし芸者は芸を売ったが、高価&面倒ということで、主導権を目的買いの安いランクの岡場所に奪われていく。
揚屋と茶屋
昔、茶屋というとほとんどはそういう意味。あげやは、高級遊女向け。茶屋はそれ以外
大阪新町の成り立ち
加藤清正の、家臣のひ孫が大阪城西南の、よしのはらを開墾し、京都伏見から大阪道頓堀に移動。当初、行商人、漁師相手が主だったので細細経営だったのが、大阪から京都まで遠くてやだ、、という、大阪の金持ちがやってきて繁盛。商人の社交場となった。
新吉原で経営者 総入れ替え?
謎にせまる記事では、吉原が焼けた後の新吉原になって、38年間牛耳っていた全ての有力者が、総入れ替えになったということ。明らかに政治が介入し、揚屋の大半は南知多衆であったことが指摘されている。
花魁道中のおこり
花魁道中、太夫道中といった華々しいパレードは、客が貸し座敷の個室を押さえ、彼女達を呼び出していた。貸し座敷には防犯と風紀上、布団がなかったので、花魁は自分と客の布団などを男衆に担がせて行ったのがはじまり。