法然と親鸞の違い
京都での勉強会。情報も通信もなかった時代に、人の深い悩みを知り、それを天命のごとく、広く教え、伝え、悩める人に当たっていく凄さは、特に現代人にとって想像を絶するものがあります。
さて師匠と弟子の関係でも知られるこのお二人の祖師は、庶民にとって大きな違いがありましたから今の繁栄に比例しています。法然は国内でも群を抜く親しみ易さをもっていたと同時に、エリート中のエリートでした。比叡山 天台宗のトップになりえたものを捨て、専修念仏の教えに舵を取ります。
しかし庶民には阿弥陀さまを信じれば救われるという意味は解かっても、仏教の本質を理解するのはそもそも難しかったし、スーパーエリートである方の話を深く理解して念ずるほどの時間も学識もなかったと思われます。
それに比べると親鸞は、既に救われているのだから阿弥陀様の感謝を!といいます。公家や武士、知識人ではなく、日々を生活に追われる庶民にとってまさに救世主だったに違いありません。
一方で親鸞の教えには大きな欠点も持っているといいます。それは日蓮が絶唱する天下国家のことに触れていないということ、やはり個人からステップアップしたらその地域、やがて国へと、それらを富ませる願望が沸いてくるのは当然ですし、世界視点では必要になります。そもそも護国寺など仏教のスタートは祈祷含め、国家安寧を願っていたし、現代もその流れは消えていません。
またキリスト教も一神教ですが、世界平和の概念も書かれている分、浄土真宗とは違うといいます。
「神道は神へ通じる道」
”神道”は”神教”とはいいません。民族が持つ思想的なものも含めやはり道なのだと思います。
術と呼ばれているものはやがて廃れる。ただし道の場合は続いていく。嘉納治五郎は柔術と呼ばれていた時代に、己を研鑽することを見出し柔道に変えた立役者だと言われています。20歳前後で柔術を学び、東大で哲学を専攻。最終的には回転に回転を繰り返すことで重心を失わないことを学び、これを空気投げとして編み出した。
暴力ではなく力を善(誠)に向けることこそ柔道、争わず他者も己も共に栄えるという自他共栄こそ必要だというスピリッツが、背の低いものでも相手の力を使って投げるという技を産み、柔道に昇華させた。
柔術と柔道の違いを学んであらためて道のすごさを学んだ次第です。