京の都 自然の力

木は何も人におもねらなくても人を魅了し、人を集める。
サクラしかり、紅葉しかり。

紅葉は、あくまでもエネルギーが不足する冬の時期に備えて、自ら葉の栄養をコントロールし、葉を色づかせて、落とし、母体を守るようになっている。みかんの木も寿命が残りわずかになってくると甘くなってゆく。皮が薄いほど甘いという技は、ワビサビの極み、禅のようでもある。

そしてそれらは、淡々と自身の生命活動を行っているだけなのに、美しい。

春と冬に咲く二期咲きの牡丹、特に冬に咲く寒牡丹の枝っぷりもとっておきの存在、わびさびだ。

1年に一度咲けばいいのに頑張って2度咲く。冬は栄養がないので、枝は悶えながらの造形が痛々しくも、勇ましくも見える。温暖育ちの冬牡丹とは根性が違う。

ヘルメットスタイルの競技場や、なんちゃって建築家が作る自然に逆らう建造物、税金を吸い上げ一部の人間の私服を肥やすために作られ、コストがなく壊すに壊せなくなったハコモノなど、たいていは人の作るものは無駄が多い。

人間が創り上げたどんな造形物よりも美しいのは、そこに息遣いが聞こえるからかもしれない。朝日や夕日を見て感動の涙を流す人間は多くても、先の建造物で涙を流すことはめったにない。せいぜい耐震偽装や柱の違法建築ぐらいか。

ずばり自然の営みが美しいということは、自然の一員である人間も、自然な行動をすると美しい。ラストサムライなどで、主人公のトムクルーズが、サムライの集落に連れてこられてきた際、すれ違うもの全てがお辞儀をするシーンは、なぜか涙腺が緩む。

きっと太陽が沈むように、農作業などでウシと共同作業したり、収穫したり、祈ったり、自然に近い営みが人間の心を打つのかもしれない。

そう考えると、デイトレーダーや人に金貸さずに儲ける金融業が悪いとは言わないけれど、やはり農業が一番偉大なのかもしれない。

暦年、仏教、神道、教会が数多く同居する京都にも、中心部の観光部分を除けば、まだまだそういう空気が残っているのかもしれない。

だからこそ、人は魅了される。

寒かろうが、朝早かろうが、文句を言わず、訪れる理由なのかもしれない。

コメントを残す