古い教育プログラムではなく現代流にいこう!

春の陽気に包まれたような天気

今年の初日の出でさえ起きていない朝5時には、最寄駅を飛び出して三田方面へ。暗い中グリーンバックジンバルデジタルペン、そしてPCを持ち出し、(あとカメラボディのバックアップに三脚、電源なども)、卒業する子供たちの絵を収録するべく、現場に向かったのです。

ペンでの卒業者たちの名前を書いてもらう時間があまりとれず断念した一方で、インタビューを部屋の一角でダラダラ行うではなく、スポーツマンらしく、歩きながらやることに変えたことは無風に近く、晴天で青空が広がる今日、思わぬ良い絵をもたらしてくれました。

 

何よりもびっくりしたこと

実は2つありました。一つはペンとPCを渡したら、勝手に絵を描きだして、色を変えたり、消したり自在にしながら、年齢もバラバラな子供たち同士で切磋琢磨し、楽しんでいたこと。(寺子屋はこうだったのかも)

一つはブルーバックで合成後の絵もリアルタイム表示していたら最初は喜んでいた子供たちが、10分後には、背景を変えろとか、動画に出来るのかとか、要求が上がったこと。もちろん汗をかきながら即時対応しましたが、彼らの順応力と応用力には目を向いてしまった次第です。そういえばAIの進化が子供教育と同じようなロジックを与えて一気に加速したことを考えると、ゴールを与えてひたすら次へ次へと向かう純粋で何でもスポンジのように吸収できる柔らかい頭は、あの世代の特権だったんだと改めて思い起こされました。

自ら困難に立ち向かい、道を切り開く人は、幼いころに学校で変な答えを出しても笑われずに褒めて伸ばしてくれた教師の影があったようですから、子供教育という簡単なように見えて実はポテンシャルを引き出すか、可能性を封じ込めるリスクを内包していると考えると、食うためだけに働く一部の先生や日教組なんかの古い教育プログラムに冷や汗が出てしまいます。

にしても、せっかく持って行った三脚をまったく使わなかったのはジンバルが有効に働いたから。そもそも見る側、つまりこちらの視点がじっとしているということは、元来おかしいことで、講演会のような置きっぱなし以外はもう不要なんだと同時に、背景が常に動く絵は見てて飽きず、実はこの方が人間の生理的現象に一致しているんだと確信してしまった次第です。

 

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