ビジネスにも個人の進化にも繋がる学び

「学ぶ」は良いことだ。
しかし先人達は「学ぶ」にどんな 意味を見出していたのだろうか?

現在、あるご縁で良い先生陣に出会い、幾つかのジャンルを学んでいる。その一つが 神道、そして仏教、四書五経の大学、中庸だ。そして聖書。

 

徳川260年の礎 朱子学

朱子の想いは 「先人たちの学ぶ姿勢として歴史を丸暗記する項目ではなく先人たちと同じ思いで自らの身を修めるように願いそれらが根付く ことをひたすら願っていた」ということである。

つまり、歴史はテストで出るからといって覚えるものではない。先人達が目指したものの歩みを止めることなく、バトンを受け止めて、次にすすめるということなんだ。もちろん自分のやるべきことを。
さらにこれは、日本神道にも通じるものがある。

 

日本神道の教え

鳥居神道とは、祖先道であり、人の道が説かれている。
あくまでも「道」なのである。

神話は歴史ではなく、祖先から伝わってきたものの考え方が書かれている。だから読み解ける人によれば、古事記には、歴史だけで伝わらない日本人の考え方が散りばめられている。(女から声がけしたら未熟児が産まれ、男から声がけしたらうまくいった話は、男が先だという責任論。 岩戸隠れの話で、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、なぜ 弟の素戔嗚尊(すさのおのみこと)の乱暴を怒って天(あま)の岩屋戸に隠れたのか。姉である上役が責任をとったのである。)

学ぶ= 真似ぶ ことである。
何を真似ぶ? 神を真似ること。

祭り(まつりごと)とは神とまごころを釣り合わせること
(国家の理想の実現を誓い、民の生活の安寧をもたらす秩序を整え、正義をもたらす政(政治)。

考える=神に還(かむがえ)り、自らを鑑(かんが)みること。

歴史に学ぶとは、先祖が何を考え、何をなそうとし、何を理想としていたかを真似し、神還りそしてそれを不屈の心を実践することが学びである。

その道が人道(じんどう)である。

それを真摯に追い求めた時、濁りがとれて じんどうー>しんとうー>神道(神へ続く道)となる

 

 

道とは

神社 何かをなそうとして何かを真摯に追求し、それを極めることを求めていく姿。日本では己の中に眠る己としての理想を掘り起こし、追求する。極めた先ではなく、その過程にこそ哲学が宿る禅定型の考え方に近い。

 

 

 

クールジャパン

経済産業省クールジャパン政策の説明を聞かせてもらえる機会があったが、アニメやマンガ、ラーメン屋やケーブルテレビ、ショッピングモールを持っていく政策にとてつもないお金をかけているが、肝心の神道を持って行っていない。

法律家も関係者も、ある宗教団体に税金を使うことはおかしいと、せせら笑ったが、はたしてそうだろうか。世界は宗教ありきで動いている。そういえば日本もそういう党があるから同じようなものだ。じゃなくって、天皇は毎日、四方に向かって国民の安寧を祈っているのに。けっして天皇がすごいのではない。天皇道を歩む人がすごいのである。

とにかく聖書の国に、聖書を知らない人がつくった文化やビジネスが受け入れられるとは思えない。

なぜ震災などの非常事態において、日本人は列を乱さず他人に譲るのか、なぜ祈るのか、海外のひとは知りたがっているのではないだろうか。

神道はあくまでも道であり、祖先道なのである。この考え方を官僚なり、政府なりが理解していない現実があり、靖国問題で遊んでいるのはむしろ腹立たしい。

元に戻って、このままでは、イスラムの国や聖書の国に文化やビジネスをしにいけるとは到底思えない。結局、大手のマーケティング代を、税金で賄っただけに終わるような気がする。

天照大御神

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