雨あがる

IMG_1627 お盆が終わった後に、梅雨のような天気がやってきた。

いったいこれは地球の通常ルーチンなのか、はたまた人間が作った環境汚染の影響なのか。そして身近なトマトやキュウリ、ナスといった夏野菜がかなり値上げしていることもうらめしい。

本来、季節のものを食べるから体が喜び元気になるし、当然 量も豊富なことから財布にも優しいはずなのだが、日照条件や雨の量などで、ひどいものは3割も収穫高が減って結果、価格が高止まりしている。

こうして夏は適度に温度を冷やしてくれる機能を十分に発揮できていない。そういやぁ、さんまもとれないというから、この先もきっといろんなことが予測される。

さて、「雨あがる」山本周五郎 著(新潮文庫)を読んだ。

このところマイブームである周五郎さんだが、「いわゆる義理人情ものね」と軽く表面しか見えない批評家への発言に我慢できず、あえて本の帯で心の奥底にある著作心理の種明かしをする心意気、直木賞史上唯一の授賞決定後の辞退者として、人間の深さを感じる。

<後書きの木村氏の解説>
私の書くものはよく「古風な義理人情」といわあれる。私は自分が見たもの、現実に感じることの出来るもの以外は、(ほとんど書かない)し、英雄、豪傑、権力者の類にはまったく関心がない。人間の人間らしさ、人間同士の共感といったものを、満足やよろこびのなかよりも、貧乏や病苦や、失意や絶望のなかに、より強く和つぃは感じることができる

 

25歳のときすでに、泣かせる小説なら造作なく書けることに気付き、泣かせる小説のもつ底の浅さ次元の低さについてもいくばくかの反発を示している。

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簡単、便利といった、わかりやすさがうける時代、熟考しない・できない人も増えている。おなみだ頂戴が見え見えなテレビや小説、FacebookやTwitterなど、だんだん短文化し、深く腹にとどまり、右か左かわからないが、しみじみと突き上げてきたり、あるときふと蘇ったりするものがなくなっているような気がする。

要はコンテンツも単純消費になったのかもしれない。画面は目の前30センチと近くなった一方で、長い文書や動画を見るのはとてもつらい。

時間や分刻みで動きやすくなった反面、隙間時間をスマホが奪う。
熟考してふと天から芸術が降ってくる可能性が減るのではと危惧してしまう。

 周五郎さんの小説は短文の塊を束ねたものも多いが、いいたい一言を伝えたいために、ひとつの短文が産まれるという裏話を聞いた人もいるらしい。そんな中最後の「おごそかな渇き」は、宗教的課題を取り上げ、現代の聖書として構想を練りながらも絶筆、遺作となったのは大変惜しいなぁと思うわけで、宗教とはいったい何か、人生とは何か、キリスト教や仏教、そして人間の幸福とは何かを見つける旅で、途中いきなり寸断されてしまったのは残念である。

 

 

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