いったいどんな世界が見えるのだろう!

脳のどこかにあるはずの確かな記憶

なぜ駅の中で傘をさす?大阪駅

ある時は心で記憶するだろうし、ビジュアルや声で、まさに耳や眼や身体で、そしてその時に鳴っていたBGMさえもセットで、覚えているだろう刻まれた記憶の断片

それをつなぎ合わせれば一つの記憶が蘇ってくるのだろうか

 

ある日突然、ビジュアル=撮像を担う 眼を失ったら どうなるのだろう。

そんな重圧に耐えて、乗り越えた方にインタビューをさせて頂きました。

産まれついて眼が見えない先天性の方と比べると、過去にしっかり見えていて後から見えなくなる後天性のため、ビジュアルは撮像できるのだろうと思う。良い記憶がより美しいシーンとして脳裏に焼き付く様に、この方の脳裏には、実際のものよりも圧倒的に美化されたシーンが広がっているのではと思えてしまいます。

以前、両腕を無くした安曇野と大阪和泉市を行き来する絵描きの大先生にインタビューさせて頂きましたが、その際に感じた「人間は、何かを失っても何かを得られるすごいポテンシャルを持つ」という感覚。特にそのような偉大な人は、普通の人では耐えられない痛みに耐えられる様に、そもそも大きな社会的役割をもって産まれて来られたように思えてなりません。

ふと、上の絵描きの先生の言葉、全ては神に与えられていた という言葉が思わず脳裏によぎりました。

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