言志晩録 1-50

久々に京都勉強会。言志晩録 1-50に戻りました。

p7.はしがき。
この語録は天保9年(67歳)に始まり嘉永2年(78歳)に至っている

–> 弟子ではなく、一斎自ら書き残す。さらっと書いていますが現代に置き換えたとしてもこの年で人に残すものができると言う事は素晴らしいと思います。

自分が78歳のときに何をしているか、この精神は心に留めておきたいと思います。

p8 1.為学と為政
学問をするにあたって最も大切な事は心と言う一字にある。(略)

政をするにあたって第一に眼をつけるところは「情」という一字にある。人情の機微に従って人々を治める。これを王道の道という。

–>

流石、西郷さんが金科玉条(きんかぎょくじょう)で愛用した言葉だけあって、趣深く感じました。

結局事を成すと言うのは1人ではできず多くの人の力を1つに纏め上げることこそが 最大かつ最短の道なんだと感じます。一気にできるものではなく、それをひとつひとつ積み重ねることが、上のステージに上がってゆく感覚。

ひたすらに学問を行く仕事も大切ですが、どんなに意味や価値のあるものであっても伝わらなければ意味がない。

政でなくとも、これは仕事をする上でも同じこと。自分のやりたい事を相手に押し付けるのではなく、人々が喜ぶことを聞いて話して、そしてそれを形にするそこに自分の思いを乗せていくことこそが、ビジネスの秘訣なんだと感じました。

p.15 6.心は平なるを要す
外界がどうあっても心は常に平安であることが肝要である。心が平安であれば自ずと心は安定する。同様に際安らかであることが肝要である。己が安らかであれば何事もまっすぐに行うことができる。

「付記」
つまり自分の本当の敵は自分の中に巣を作っている自我、或いは我欲である。最後にもう一つ。神を抱いてもっと静かなれ。

-->

健康も気から。そして沢山の幸せが集まるのも気であるということが凄い。金や権力じゃない。

確かに何もないから奪われる心配もないし、平静だから無理がなく、何処にもプレッシャーがない。

興奮しないから冷静な判断に繋がる。心臓 の負担もなく、何よりも周辺に迷惑をかけない。神を抱くとは、神の目線に立っち行うこと=真理を追究することなのかもしれません。

究極は災害や戦争の時、まさに自身の命がかかる場において鍛えられるものではあって、突き詰めると、以前の図書、山本健一さんの命もいらず名もいらず山岡鉄舟さんに帰着するのでしょうね。

こうなりたいと思うけど、いざとなると慌ててしまうのですがやはり日々修業ですね。

コメントを残す