京都での勉強会での読書感想文。どうせ死ぬのになぜ生きるのか (PHP新書) 名越 康文著 の後半からですが、とても解りやすく書かれていて共感がもてました。防備録まで
p.152
私が変わることで現象がかわる。
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俺が俺がという視点の人と、まず相手がという視点では、行動、喋りが天と地ほど違う。ポジティブもこの流れなのかも。人にどう思われるかではなく、こうしたいとか、世のためを考えると こうすべきという風に語尾含めて 力強い発言に変わる。
自社に絶対に必要だが自身で判断できないようなものをぶつければ、担当は上司、さらに、その上司へとバトンが渡っていく。巨大企業の社長であっても。
p.160最後
全国の何万というお寺をはじめとした莫大な宗教資産が、有効活用されていない
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マイルドに言われてるが、一般も悪いけど宗教家も、怠けている。精神の病が300万人とも言われる中、仕事できてない。
p.165 中程
そうした一人一人の世界観といつのは、実際に触れたり、体験したりしたことというよりは、人から聞いたことや本で読んだことによって脳が、作り上げたものです。
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そうか。だから体験は何よりも強く、、人の、レベルを、押し上げる。知識として聞いただけのことや、仮想現実などのバーチャルツールがどんなに進化しようと、人が実際に研鑽し、、得たものしか身に付かないし、人にも伝わらないのかもしれない。
これは真心を釣り合わせるマツリに進化すれば実行力が強くなる。ただし経験だけではだめなのも確か。
p.173最初
必ず町(俗世)との、区切りとしての、山門があります。
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能の、舞台に備わる橋が、この世とあの世を、繋ぐ役割同様、
人は自然と幽玄なものを作っていることに不思議を感じる。
p.175最初
ご本尊と呼吸を合わせる
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先日、奈良の吉野の、険しい山を登り、樹齢200年の木を切る現場を撮影したが、、倒される前に手を当てると不思議な気をもらった。倒れる時の恐ろしい轟音の一方で、かぐわしい木の香りは頭から離れない。関係者一同、木を倒す前には、塩と米と水を備え、礼をしていた。
p.196
自分で認識できるようになってくるとわかりますが僕らの脳裏に湧いてくる妄想と言うのはそれほど奇想天外なものではありません。
むしろほとんどの妄想と言うのは世俗的でスケールが小さいのが普通です。僕らはそういう小さなスケールの妄想を無数に生み出しそれによって縛られています。
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確かに小さい悩みが多い。だから海や広大な自然に触れると、さらに比較されて、バカらしくなるのかもしれません。テレビや占い師さんに100%を頼らなくても、無料で偉大なものは既に用意されている。
p.206
気分を高めるのであれば瞑想の時にお香をたくと言うのも有効です。アロマの力には並々ならぬものがあるのですが瞑想の際にお香をたくのは、お香の香りを仏様の息に見立てるためでもあります。
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なるほど、しりませんでした。近くにおられる(聞いてくださる)という感覚で頑張れるのかも。
p.225
唯魔経の教えは一言で言えば日常の中で修行するということの大切さを解いたものです。人里離れた山奥に行くものではなく社会の中で仏道修行をする。・・・より多くの人が救われる
ということこそが本当の意味での悟りであり救いであると考えられるからです
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こう考えると、現代は大乗仏教の宗派でさえ果たして道を行えているのか疑問です。お寺の修繕はよく見かけますが、日常で修行するとか、多くの人への貢献をしているのかとか、他人や社会に積極的に関わるイメージがあまりないように思います。大丈夫 教(だいじょうぶっきょう)(^ ^)
p.227
そもそも方便とは具体的に何をするのかと言えば困っている人に親切に接するということに尽きます。
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まさに法人という人の集合体こそ、先述の「お金にとらわれない」と合わせて、社会活動やビジネスそのものであり、方便なのかもしれません。
人の困ったニーズに応えることで成り立ち、それを自己満足に陥るとやがて不正が起こり、結果、社会から不買活動で会社が潰れる。民間をやめて大学の教授に戻る人もいるといいますが、それが社会不適合だから自分に閉じこもるというのでは、新しい理論も、試みも、さらに人への教育もまともに出来るとは思いません。
p.229-230
慈悲とは東洋の愛である。慈と言うのは相手が人間として成長していくことを願う気持ちです。・・・一方、悲と言うのは相手の立場を理解すると言うことです。
・・・一言でまとめれば相手の心に感動した上で
相手の成長を願うと言うことになるでしょう。
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慈悲に相手の成長の意味があるとは、知りませんでした。哀れんでお金をただあげるのではなく、やはり魚の釣り方を教えるということで、どちらかが卑下することなく、両方が成長し
発展するのではないかと思います。
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全体を通して瞑想とは、自分の揺るぎない確固たる骨(哲学)を作ることかもしれません。ゆるぎない柱ができることでどんなケースにも矛盾なく対応できるこれは決して自分のことだけでなく相手に対しても同じ。
囚われや私利私欲、自己を忘れて、宇宙、つまり「天の願いを知り、応えていける自分になるよう励む。天の願いを叶えるためにも、当然1人では無理だから、国民が一体となってそれぞれの得意分野を最大限発揮し、教え助け合い、集結したパワーを向かうべき方向に進めてゆくということなのかもしれません。
楽しみながら。
これこそ、どうせ死ぬのになぜ生きるのかの答えなのかもしれません。次の本も面白そう