Youtubeしたい

きっと昔は、ものすごく世間のみなさんに伝えたいことがあって、いや決してそんな公家的なのんきな言葉ではなく、震災後の長淵剛を持ち出さなくても、言いたいことあんねん!頼むから聞いてくれ!的な動機があっただろうと思います。

 

遺したいスイッチ?!

写真 2015-02-10 13 23 01それなりに人生経験を積んで来れば、見えてくるものもあり(これを悟りを得るとはいわないまでも)、時代時代に人々が親しみやすく影響が大きい手段でもって、そして個人の力量によって(こちらの比重が高そうですが)、新聞への投稿、週刊誌コーナー担当、本を出版といった文字化や、TVやラジオに出演したり番組をもつなどの生声化、絵や音楽で表現するアート化、そして集大成とも呼べる映画化といった手段を選んでいたのだとは考えすぎではないと思います。

そのスイッチが入るタイミングは、例外も多いけれど、60代70代を超えたあたりからふつふつと湧いてくるように思えます。

若いころに映画を目指す方は、野球選手のそれとあまり変わらず、趣味や好きというところから入って、社会的に何かを伝え残したいといった欲よりも、自分が名を上げたいとか、お金を儲けたいとか、あのタレントと共演したいとか、監督したいといった個人的な欲求によるものが多いと思います。(もちろん小学生のイチローのように将来はメジャーでお世話になった人をスタンドに招待したいという類まれな人がいるのも確かですが。)

写真 2015-02-10 12 27 48自我が芽生え、てめえだけのことを考えていた初期から、家族を持ち、少しは自分以外のことを考え、やがて地元の町を考え、市や県に広がり、国や業界に向かう、といった王道があるのなら、そういった発信は、その最後のステップまで生ききった選ばれた人がなせる業だったような気がします。
しかし現代、ITの発展が、良くも悪くもヴェールに包まれていたブラックボックス(作業工程や本当の原価、内部事情など)を明らかにしたがために、音楽はPCで複製し、視聴率のうそや、アイドルがおならをすることを突き止め、俳優のスキャンダルが映画の質を下げ、特に現代の人は、あらゆるものへ興ざめを海の潮の満ち引きのように、たくさん被らざるを得なかった。

 

魔法が解けてしまった

別の言い方をすると、流行をつくり、ものやサービスを効率的に売るルーチン(マーケティングというものの正体)がばれてしまった。ディズニーランドに鏡がないのは、夢心地の状態を、ふと自分の顔を見てしまったがために我に返ることを防ぐといいますが、それに近い魔法なのかもしれません。

何よりも、こんな職人がここにいるよとか、同じ趣味を持ったひとはここにいるよということを伝えるWeb技術なんかが大きく貢献したと思っています。

もっとも魔法はまだまだまだまだ有効で、テレビ中毒のおばちゃん連中は、TVのいうことは信じてくれるけれども、既に、ネット世代の若者は最初から冷静な目で見る知恵と、技術を持っています。

なんの話かわからなくなりましたが、言いたかったのはつまり、昔は映画をつくるぞという意思があって、お金もキャストもスタッフも脚本も含めて一大決心で映像を作ったと思うのですが、今はYoutubeしたい というのが主語になれる という事実を知り、時代の流れを感じた次第です。
さぁYoutubeで何発信しよう!

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