昨日の勉強会の内容を改めて考えてみる。
第一章に和道を立つ
かつてインドネシアのバリ島に行った際、ガムランという大中小の木琴のような鍵盤打楽器があって、それぞれの楽器が奏でる音そのものが異なっている ということに驚きました。
なぜなら皆が、綺麗な音階を重ねていて、とても豊かな、それでいて不思議なメロディが、延々と続いたからです。
ある種、ジャズの、ボーカルと異なる楽器で一つのハーモニーを永遠と楽しむごとく。しかし驚くことにこのインドネシアの10分も超えるような音楽は、毎回同じ内容というから驚きです。
同じ楽器でドミソ、レファラと奏でられる音が違うとなると、しかも今誰かが慣らしている音に重ね合わせるテクニックは相当の音感・感性も必要でしょうが、小学生時代にトランペットを吹いた程度の経験では、異次元の技術のように感じられます。
かつての日本を探してみる
一番位の高い楽器と言われた琴は、和琴と言われ、単音でなく、和音を出す楽器。お互いの弦を生かし合うことによってはじめて妙なる音を醸し出す。
雅楽(ががく)という宮中の儀式,饗宴で奏でられた伝統は、日本古来のもの。
神楽笛・和琴などのほかに,外来の笙・篳篥・笛などの管楽器と,箏・琵琶などの絃楽器と,鞨鼓・太鼓・鉦鼓・三の鼓などの打楽器があるようで、これらが見事に調和されて聴衆者と共に一体感を醸成していく。
聖徳太子の十七条憲法
にこれが冒頭に書かれる意味は、「異なる」から「琴が鳴る」わけで「事が成る」のだという教えに繋がっているとされます。
弦が張り過ぎても緩みすぎても、最良の状態でないと和音は成り立たない。まさに奏者と楽器のコラボレーションで成り立つ世界を、冒頭に説いているということ。
東洋の自由は、Liberty(リバティ)、自由奔放にいけ という意味ではなく、皆が一致することこそが、自由=おのずから由(よし)となる。そして中心人格と、それを囲む人との関係性こそ、本来あるべき姿を象徴している(天皇制)の大事さを、改めて学んだ次第です。