京都嵐山 紅葉散歩第二弾

今週火曜日の旅動画が結局3本に、2/3が完成しましたので共有します。

あらためて竹林と紅葉の赤のコントラストはとても美しい。
これを誰が考えたのか、太陽光があると、もうなんともいえない景色になるから、きっと自然に、多少人間が寄り添ったのでしょう。

あんこ が弘法大師によって、砂糖と小豆が合わさり京都で産まれたように、自然界に人間が関わることで良いあんばいのものが産まれる

 

御堂筋沿いでこの文字を書いていますが

結局、LEDの御堂筋を観ても一度観たら もうおしまいなんです。

毎年やってて業者は儲かるなぁと思うだけで、維新の癒着が見えるだけで すぐに飽きてしまう。
そもそも美しくも、変化もなく、量産的。まるでソーラーパネルが景観を完全破壊するのに近い感覚。昔はカメラを持った人も多かったと思うけれど、リピーターがいない気がします。

一方、自然は個性があるから美しく、どこを観ても楽しめる見所がある。
だから毎年出かけるし、色の変化を楽しむため1週間後に同じ場所に行くことも不思議ではなく、根本的に基本設計が過っているのだと思います。

 

プロジェクションマッピングも同じ

芸術家の絵画レベルならまだしも、ただ創作者の自己満足的なビジュアル表現を垂れ流すだけでなく、歴史を感じたり、実際の昔を学べたりと、持ち帰って人に伝えるような教育要素がなければ、あまり惹かれることはなくなりました。映像関係者としては自虐的ですが。(^_^);

さらには、光のルネッサンスなどという聞こえはいいキャッチコピーで闇夜を明るくなるので、犯罪は減るかと思いますが、木々の立場からすれば、ある季節になると、体に変なものを巻き付けられて、昼間でもないのに、ひたすら光源を浴びせられて、寝られない状態、リズムが壊されてかわいそうで仕方ない。

11時ぐらいに消灯されるとはいえ、農作物が地下で水耕栽培で生きる農作物があるように、ずっと光源を当てられる負の影響は 必ずあるかと思います。

人が喜んだ反面、自然が悲しむことを 表裏一体と呼んでいいのか不明ですが、童話作家 金子みすゞの「大漁」の詩にも通じるモノを感じます。

紅葉の様に、自然美をただたんたんと楽しむことが、本来の人間の営みに合っているだと改めて強く思った次第です。

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