今日の勉強会 天才と秀才の違い

kyoto01秀才は作られるもの。常識の中で才能を開花させていく、学力として蓄え高めていく、。だから共感を生む。

一方で天才は、常識を破って才能を開花させる。作れるものではなく、ある種、時代の子、必要に至ってこの世に落とされるもの。

絵の世界で天下をとる

kyoto03上の話はとても奥深い。狩野永徳、長谷川等伯の作品、生き方、置かれた環境を、彼らを描いた物語を見ると比較しながら、深く理解できた。

つまり、どちらが良い悪いではなく、それぞれに役割がある。

絵画の業界そのものが新しいきっかけを得て変わっていく、まさに天才にしかできないブレイクスルーを生んだのが等伯

ただし、一直線に道を求められる天才には慢心がつきもの。一方でご先祖含め一派のもてる過去の技法すべてを身に着け、さらに自分の味をつけようとがんばる、迷いながら優等生であり続ける永徳

迷いがあるから、悟りを求め、彼がもっと長生きし、発心を得ていれば、仏教用語でいう菩提(悟りの直前)に行くことができたのかもしれない。現代サラリーマンに共感を得るのは組織発展で苦悩する秀才 永徳であるが、乱世には等伯のような天才が必要である。

 

中国四書五経の中の中庸勉強会。

kyoto02テーマにあがったのは地味な存在の家光。しかし我が国において礼を実践し、祖先の志をあまねく天下に知らしめ、その志の意義を押し上げた人物である。

徳川天下で300年も平安が訪れたのも、家康、秀忠、家光と3代でしっかり建国の理想を実現したことにある。緩やかに賄賂政治に防御策を打ち、参勤交代、鎖国体制の完成などで武家の反乱の芽を摘んだ。

そして家康を死んでからのち神にしたことで不動の基盤を築いた。

もし、家康が天下を取ってなかったら、戦国の世が長引き、海外勢の植民地になっていたかもしれないと思うと、日本には時代の人が必要に応じてやってくる守られた国なんだとも思った。

にしても賄賂などで国を背負う大臣があっさり辞任する。あの当時と比べ、今の政治がいったい建国の理想や、それに伴う行動をしている人がどれだけいるんだろうと思う。

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