聖書勉強会
無信者ながら未来のことは歴史書に聞け!ということで、聖書、仏教、神道を広くときには深く学んでいますが、今日の聖書勉強会。
前回に引き続き、マタイの福音書、大きな山場である、山上の垂訓。山上でイエス・キリストが弟子たちと群集に語った教えを学びました。
施し、祈り、断食に関して
ということで、大きなテーマである3つについて
- 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。彼らは特に人に見られたくて通りの四つ角に立って祈るのが好きなだけ。
- 断食をする場合は、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。断食していることを人に見せたいだけ。
- 彼らはすでに自分の報いを受けているのです。
- 自分の宝を地上に蓄えるのはやめなさい。あなたの宝のあるところにあなたの心もあるからです。
祈りについての誤り
そういった祈る場所で、やたら大きな声を出したり、断食しながらだったり、徹夜だったり、何度も同じ言葉を繰り替えす呪文のような祈りを見たことがありますが、非礼であることが解りました。
何度も言われなくても、大きな声で言われなくても、有名な牧師経由で伝えなくても、ただただ、正しい解りやすく、シンプルな言葉で伝えれば理解してくれること。全部が自分のことでないほうがいいですが。
徹夜したら翌日やるべきことができなくなるのは、もっともだし、身の丈に合わない要望を言われても、さすがに聞き入れられないのは当然ですね。
財物について
人は二つの主人に仕えられないため、宝をどこに置くか、天か地かのどちらか一方を選ぶことになる。
富が主人の場合
衣食住を常に気にすることになり、結局は富に使われる。金の奴隷という表現が正しいのかもしれません。これは現代でもそうで、ゴールが金の場合は際限がないため、やはりおかしくなる。
天に宝を蓄えた場合
一気に話が変わる。神のしもべとなり、他人のために使う、他人の衣食住が気になる。神の国と義を求めるようになる というわけです。
とても解りやすい話ですね。ちなみに服を無駄にたくさん買う人は、それを選ぶのにも時間を使う、本来はそんなこと無駄なことだといいます。
結局は
結局はできる限り儲けて、蓄えて、すべてを尽くして与えなさいということ。そのためにも信じれば天国、信じなければ地獄といったゼロか一かのような容易い行為をしてはいけない。今度は自分がそのようにみられるということ。
だれであれ求める者は受け、探すものは見つけ出し、ドアをたたくものには開かれるようにできている。そして人の罪を許す、つまり人のミスを許すということは、結局、自分がミスをしたときに許される良い連鎖に繋がるということ。
いゃあ、豚に真珠がここで出るとは・・いずれにせよ、聖書をまっとうに読んでいれば宗教戦争なんておかしいし、よい先生につかず、悪い実が出来る苗にひっついていたら全然違う方向にいってしまうなど、まっこと真理が書かれていると思う次第です。 |