仕事がある人、ない人

といってしまっては、いろんな誤解を生むかもしれませんね。しかし営業マンが仕事がないといったらどうでしょうか?

img020お金があろうがなかろうが、五体満足であろうとなかろうと、頭が良くなくても、考え、行動することは誰にでも出来ると思います。なんらかの仕事は自分で作れる ということです。

独立したとか、両親が介護状態にあるとか、勤め先から解雇されたとか、いろんな諸事情を人は抱えていると思います。

しかし実は、他人と比較という偏差値的な視点を取り払ってしまえば、問題の本質は案外とシンプルだといえます。

人生、その人にはその人だけが超えられるテーマが与えられると聞きます。比べるという時点で、自分の外側に視点がある。あいつは金持ち、あいつはビジネスがうまい、宝くじ当たって・・、もてやがって・・、本来、仏教や神道の考え方では、方向が逆で自身の内面に入っていくべきといいます。自身の中で解決すべき問題をいかに悩み、実行していくかといった修行の工程が問われているといいます。

そしてそういったものを克服してはじめて、周辺が整うという教えがあります。乗り越えず逃げても同じ波がやってくるだけ。

よく、人生を左右するような岐路に立った時、人に相談する人も多いと思いますが、本来は自分の中にしか答えはなく、人はその人の立場になろうと努力はできても、なりえません。そもそも本当は答えはわかっていて、他人にそのお墨付きをもらうために相談していることがほとんどだと思います。神さんがいるとすれば自分の中の良心が最大の神さんなのかもしれません。

占い師さんに聞いて選ぶというのはやはり他人依存し過ぎで、アドバイス程度にとどめておくべきなのです。そうでないと、占い師さん自身も罪をかぶることになります。

img008今日、明日というものは人間の都合で区切られていますが、アフリカでは今日明日の言葉の違いはないようです。本来はそれと同様、ずっと延長線上に続いているものです。だからその時その時を必死で考えて、判断した結果が今にある。そして明日になる。

主題のテーマに戻りますが、つまり、人はやるべきこととその能力が備わっていて、道を誤りさえしなければ、すべてスムーズにうまくいくといいます。

たとえば何かの諸事情で解雇にあっても、仕事ぶりを知っている人やお世話になった人などの縁で、声がかけられる。

それが聖書でいうところの賜物(たまもの)であり、仏教、神道でいうところの因縁果(いんえんが)、つまり種になります。

しかし大きな縁に至るまでのステップは長く、すぐには実感できる果実は得られません。そもそも何が良い縁かも普通判断出来ません。だからこそ、声がかかったものは、よほど命に悪影響がない限りは、やるべきなのです。だれかが縁をもってきてくれているかもしれないから。道が叶っていれば苦しくても続けられるというのが腹に落ちます。

なにせ人間程度のあたまで考えたコソクな手段で、親が子供の将来まで安泰のレールを引いたりするから、おかしくなってくる。

今日、とても驚いたのですが、知人のところに、世界のある分野の市場で半分を占める企業など複数社から、ぜひその技術がほしいと声がかかったようです。一流の仕事をしている人は世界から見つけられるんだと。3人介せば会いたい人に会えるといいますが、自慢話ではなく、その人に本当に必要な縁であれば会えるだけともいえます。

人知れず田舎に引っ込んだ白洲次郎が、サンフランシスコ講和会議で吉田のじっちゃんに呼び戻されるのもある種、時代によばれたのだと思うと、縁はバカにできないものだと思います。

 今週はなぜか儲からないけれど、縁の仕事が多い。。。 いろんなお金持ちのスポンサー達に呼ばれるようになるためにがんばろう(笑)

 

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