ふと図書館に行くと、入り口にそろばんを飾っていた。
思わず、懐かしくなって写真をパチリ。
ほぅ。室町時代以降、中国のそろばんを真似て、日本性のものが出来たのがルーツだそう。長崎がルーツとある。下の小さいのは携帯用のそろばん。
当時は、唯一の計算道具、そろばんを携帯することが課題だった。涙ぐましい努力の結晶...と記載が続く。
江戸時代の和算書の方も大変趣き深い。
「同時代のヨーロッパでは、数字は貴族や軍隊だけのものだったが、江戸時代の庶民の和算ブームはきわめて特異な状況だといわれている」とある通り、あの時代から日本は金持ちも庶民も満遍なく教育が行き届いていたといわれる。
このおかげで西洋列強の時代、植民地を免れた経緯がある。朱子学から発展した儒教などの学問は、寺子屋や武士の学問所など含め、多くの人間が貧欲に学んでいた時代は、人間そのものの強さがあった。
現代では、携帯=電話であり、スマホ=コンピューターである。ひとつの画面にあらゆる表示やボタンを再現、いろんな機能を実現してくれる時代が来ようとは、この時代の人は想像してなかっただろう。
バリ島ウブドでは、ガムランを勉強せず、クラリネットなど西洋の楽器に興味を奪われる学生が多いという。
この日本も、そろばんが電卓になり、電卓が、携帯、スマホになった。
墨は筆ペンに変わり、マジックや鉛筆、シャープペンに変わった。
今は記録そのものが雲の上(クラウド)というから、変な気分だ。
便利の裏側で失うもの、そしてこれから
便利なツールが用意されたにも関わらず、ゲーム会社の増収増益のニュースがなんともむなしい。小学生から目も悪くなっていて、コンタクトレンズの激安チラシの売り子があまりに目に付くのが悲しい。
今、そろばんを使える人はどれぐらいいるのだろう?
現代、そろばんを教える学校はあるのだろうかか?
文化は進化のカタチであり、歴史である。伝統工芸しかり、能しかり、続いて欲しい思う。
今、アメリカでは100万を切っていた状態から500万枚ぐらいまでレコードが復活したらしい。日本でもその流れをとらえようと一部でレコード店が復活するらしい。
絶対音感を持つ60代の知人によると、やはり欠落した音声があるという。そしてそろばん文化。便利はいいけれど、電気に頼らない昔ながらの計算機は、エコでいなせなツールとして、スピリッツを伝える道として、復活してくれればと思う。
そろばんで計算した後、墨をすって、筆で帳簿をつける。今なら一瞬で、いろんな手段で出来てしまう行為になったからこそ、なんとも奥深しい素敵な所作だ。時間がかかるからこそ、茶道のごとく、精神を落ち着かせ、計算に集中できるに違いない。
特に観光立国を願う日本!外人さんの前では、そろばんをはじくこと自体が文化の発信じゃないかなぁ。